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ディーン・フジオカの驚くべき半生。出生から留学、結婚、日本での活躍まで。 [芸能]

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※ ima.goo.ne.jp

突如として彗星のごとく現れた

ディーン・フジオカさん。

NHKの連ドラ「朝がきた」の五代友厚役でブレイクし

あのイケメンは誰だ! 誰だ!

と世間で話題になり、

雑誌のインタビューやTV番組のオファーが殺到。


色々な番組への出演や取材をとおして、

彼の歩んできた半生や

人となりがだんだんと分かってきました。


そこで今回は

今まで集まった情報を元に

現在に至るまでの

ディーン・フジオカさんの半生

探ってみたいと思います。



<ディーン・フジオカさんの出生・家族>

ディーン・フジオカさんは1980年8月19日に

福島県で生まれ、千葉県鎌ケ谷市で育ちます。

現在は35歳。


父親は中国生まれの日本人

お母さんも日本人

ですので

ディーン・フジオカさんは日本人です。

本名は藤岡竜雄といいます。



・父親

父親はIT関係の仕事をして外国人との取引をしたり

海外出張に行っていたそうです。

幼少期にお風呂に入っている時、

中国語で1~10まで数を数えさせられた

というエピソードもあります。

ディーン・フジオカさんの

日本だけにとらわれない国際感覚は

父親の影響が大きかったようです。



・母親

母親は自宅でピアノ教室を開いていたそうです。

ピアノ以外の楽器もたくさんあり、

幼い時から遊び道具にしていたとか、


色んなTV番組ではピアノを弾いていますが、

当時は母親に無理やりピアノを習わされた影響で、

ピアノは嫌いになり、あまりやらなかったようです。



・妹

またディーン・フジオカさんには藤岡麻美さん

というもいます。

彼女も芸能人で1998年から約1年間活動したアイドル

チェキッ娘のメンバーです。

兄のディーン・フジオカさんや父親の影響なのか、

妹さんも現在は台湾でも活動をしています。






<高校時代>

ディーン・フジオカさんは音楽、

特にヒップホップが好きで

学生時代からラップをしていたり、

バンドを組んでいたようです。

kinnsuma.jpg
※金スマより


17歳の時に妹が勝手に応募して

第10回ジュノンボーイコンテストに出場。

最終選考の6人にまで残ります。


しかし、

このまま芸能界の道を歩むのかと思いきや、

「もっとやりたいことが他にあった」

ということでその道を進むことはしませんでした。


では

ディーン・フジオカさんがやりたいことは

何だったか?


それをこのように語っています。


「日本で会社勤めをして・・・というよりアメリカで
新しいIT関連の仕事をすれば、ビル・ゲイツや
ジョブズのようなトップになれるんじゃないかな」



父親の影響もあったのでしょう。

IT関連の会社を起業して、

生きていこうと思っていたんですね。




その他にも

「実はひどい花粉症で、日本で住めないと思ってたんです」

という身体的な理由も話しています。



アレルギーでいうとディーンさんは

小麦粉アレルギーも持っていています。

小麦粉を食べると体調を崩してしまうとか。


あとはお酒も飲めない


TBSの「ぴったんこカン★カン」に出演して

レストランを巡った際は、お肉をたくさん食べていました。




<アメリカへ留学>

1999年の19歳の時、

高校を卒業した

ディーン・フジオカさんは

ITの勉強をするためアメリカのシアトルに留学します。



その時のホームステイ先の父親に「ディーン」という

愛称で呼ばれたそうです。

ディーン」という言葉の意味は広東語で「crazy

かなりクレイジーな生活を送っていたのかな?



アメリカの大学ではITの勉強をしながら、

バンド活動をして生活していたそうです。



学生生活での出会いについて

ディーン・フジオカさんはでこのように語っています。

「6カ国語をネーティブのように扱う人、
某国王族や首相の家系の人、アートの世界でも、
音楽の世界でも飛び抜けた人が多くて、圧倒されました。
共通しているのは、みんな国境の壁を取り払って
世界で活躍していることでした」

(※「女性自身」のインタビュー)



ディーンさんの思惑では

このままはアメリカに定住して会社勤めをし、

よくよくは会社設立を考えていたらしいですが、

ここである事件が起こってしまいます。


2001年9月11日の同時爆破テロです。


それにより外国人へのビザが

発行されづらくなってしまいました。




<バックパッカーの旅>

「弁護士を雇って移民局と交渉することも考えたが、
それは時間とお金の無駄。
せっかく時間ができたのだから、
バックパッカーとして旅をしてみよう。
アジア人だからアジアを周ってみよう」



2003年の23歳の時

ディーン・フジオカさんは

アルバイトでためたお金と身の回りのものを売って

バックパッカーの旅へ出ます。

kinnsuma2.jpg
(※金スマより)


北京⇒べトナム⇒カンボジア⇒タイ⇒香港

の工程を3カ月で周ります。


そして2004年24歳の時、

香港に立ち寄った際、

香港中心街のワンチャイで

夜のクラブイベントに参加し、

アメリアのラップを飛び入りで披露します。


そこで

ファッション誌の編集者から

モデルのスカウトをされるのです。




<モデルからブレイクするまで>

ここで日本人「藤岡竜雄」は

日本名よりも覚えてもらいやすい

『DEANFUJIOKA(ディーン・フジオカ)』を名乗り

モデルの仕事を始めるのです。



当時の生活面はかなり厳しかったようで

インタビューではこのように答えています。


「とにかく当時は寝ていなかった!
”生きていくためには何でもやる”って感じで。
もともとデザインの勉強もしていたので、
香港でモデルをやりながら、知り合いのお店の
ランチョマットとか、お箸を入れる袋をデザインしたり、
夜のクラブに行ってMCでDJしたりなんかもしました」

(※『週刊女性』のインタビュー)



はじめはアルバイト感覚で

モデルとして活動をするうち

ファッションショー、CM、ミュージックビデオなど

次の仕事へと仕事が繋がり、

4か月後にはソニーのCMにも抜擢され

香港で誰もが知る存在になっていくのです。




しかしディーン・フジオカさんは

芸能という分野で売れっ子になった

その時の心境をこのように答えています。


「貧乏バックパッカーだったので
正直お金が目的だった。
とにかくサヴァイブしてゆくためには
色々やっていたら
たまたま上手くいったのがモデルだった」




ディーン・フジオカさんにとって

芸能という仕事はあくまで生き抜く手段であって、

特別な思い入れはなかったようですね。

だけどそんな中で、


演技に対するパッション」を見つけるのです。

演技に対してのやる気と情熱がある自分に

気づくわけです。


そして俳優としての仕事をしていくことになります。




<俳優としての仕事>

2005年25歳ので

香港映画『八月の物語』で主演をつとめ、

広東語で役を演じきります。


その映画を観た、

台湾のトレンディードラマの母と呼ばれる名プロデューサー、

アンジーチャイさんにスカウトされ、

26歳の時に台湾に活動を移し

今度はドラマ界に進出していきます。

2007年『ホントの恋の見つけかた

2008年『笑うハナに恋きたる

北京語で演技をします。


そしてディーン・フジオカさんは台湾で売れっ子になり、

表立って街に出られないほどになるのです。



しかしディーンさんは

そんな周りの状況に

自分自身はついていけなかったようです


オレこういう人生を生きたかったのかな・・・?

と思っていたそうです。


たまたま生き抜くために引き受けた

俳優の道をこのまま突き進んでいいのか?

と疑問に思いはじめるのです。





2008年の28歳の時、ディーンさんは

一度全部の仕事を休ませてください

と言って俳優の仕事を全て休業します。



そして

恋人のいるインドネシアのジャカルタへと向かうのです




<音楽活動>


自分を模索していたディーンさんは、

幸か不幸か出会いに恵ま過ぎてしまい

今まで後回しになっていた音楽をジャカルタで開始します。

ジャカルタでDJ.SUMOさんと出会い、

ディーン・フジオカさんは彼と共に

音楽制作をするのです。




「アルバム一つ作るまでは俳優の仕事はしない!」

とも当初は思っていそうです。



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<俳優業復帰と日本での活動>

休んでいる間もファンの方から復帰の手紙が

たくさん届きました。

それを読んでディーンさんの中で

俳優の道を迷わずに進んでいく決心も

ついたのでしょう。

ディーンさんはこう思います


求めている人がいるのにそれを放棄するのはダメだ


2010年30歳の時に

俳優業を復帰し、活動を再開します。


2011年31歳の時

日本統治下の台湾で起こった先住民セデック族による抗日暴動

を描いた台湾映画『セデック・バレ』に出演した際、

ディーンさんの姿が日本人スタッフの目に留まりスカウトされます。


中華圏からハリウッドの進出を考えていたディーンさんは

アジアを拠点にすることを条件にアミューズ事務所に所属します。


これにより日本のメディアへの出演が始まるのです。


2013年には

千葉県市川市で2007年に起こった実際の事件を

題材にした『I am Ichihashi 〜逮捕されるまで〜』監督と主演を務めます。



2015年にはフジテレビ『探偵の探偵』で日本のドラマ初出演

そして連続テレビ小説『あさが来た』で五代友厚役を演じ

日本で大ブレイク。
gozai.jpg
※woman.infoseek.co.jp


2016年現在はTBS『ダメな私に恋してください』で黒沢歩で出演中です。
dens.jpg
※prcm.jp



もちろん日本にとどまることを知らず、


2014年にはアメリカのドラマ『荒野のピンカートン探偵社』に出演。


2015年には松竹が、初めて海外マーケット向けに制作した
NINJA THE MONSTER』で主演。
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※historica-kyoto.com


グローバルな活動を続けています。





<ディーン・フジオカにとっての結婚・家庭>

このようにディーン・フジオカさんの半生を見ていると、

彼の10代、20代は

自分というもの探し求めてさまよい歩いた旅

だったように思います。


何を生業として

身を立てていくのか決められず、

とりあえず今を生き抜くために

色んなことに挑戦していった。


それは自由であるけれど、

土台がなくてふらふらしている不安定な状態


結果的にそれが

ディーンさんを強くし

芸の肥やしになってはいるのですが、

心はきっと休まることはなかったでしょう。




そんな時に出会えたのが奥さんだったんですね。



2012年ディーンさんは4年前に

台湾で出会った中国系インドネシア人の

ヴァニーナさんと結婚します。


ディーンさんは奥さんのことをこう言っています。

ジャカルタの虎って感じですかね

厳しいときは厳しいですね。
でも根本はすごく愛のあふれる人なので、
困っている人がいると放っておけないタイプっていうんですかね


そうやって行動に移せる人ってすごいなと思って、
魅かれたというか、興味を持つようになりました





そんな奥さんとは現在

インドネシアのジャカルタに家を持ち、

2014年には

男の子と女の子の双子の子供も授かっています。


okusan.jpg
※tsunebo.com


ディーンさんは奥さんと一緒にいる感覚を

このように答えています。


彼女と同じ時間を過ごすことで、
心がおだやかになるんです。
それで気づかされました。
自分が帰属できる“家”が欲しいと苦しんでいたけど、
それは物理的な家や国ではないんですね。
自分のハートがやすらぐ人といると、
そこが“家”になるんです




奥さんへのプロポーズの言葉は

インドネシアから台湾の仕事に行く時、

家を出る瞬間だったそうです。


結婚しよう

ふいに口をついて出た言葉だったそうです。

彼女といれば世界中どこにいても
自分のハートが帰れるホームになると思い
結婚しました


と語っています。





ディーンさんは帰ることができる‟”を

起点に世界中を飛び回って活躍されています。


‟家”という土台があるからこそ

とても穏やかで優しくて芯の強い

魅力的な男性なんだなあと思いました。



ディーン・フジオカさんの今後の活躍も楽しみです。


<参考>
・TBS「中居正広の金曜日のスマたちへ」2016年1月29日放送分
・TBS「ぴったんこカン★カン」
・女性自身
・週刊女性 

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ダメコイ.jpgヨシダヨウ.jpgたかぎ.jpgかみき.jpg


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